宇宙の果てには何があるのか

今日(昨日)は一日暇に過ごしていた(テスト前一週間なんだけどな〜)ので、
この間ちとトラブルが起こってしまったiPhotoの写真の整理なんかをしていた。
で、今日ひとつ新たな発見。
アメリカは『米国』、イギリスは『英国』、フランスは『仏国』…といった感じの『当て字名』がありますよね。
で、今年の春休みにシンガポールに行ったわけで、せっかくなのでシンガポールについていろいろ調べたら、シンガポールにもちゃんと『当て字名』があるんですね。
『星国』。
いい名前じゃないですか。なんで星なのかは知らないけど。
で、なんか思考が星→宇宙という感じになって、『宇宙の果てにはいったい何があるのだろうか』ということを考える始末に。
正直、地球が青いとか、原子どころかニュートリノとかいうのまでありますよーとか、人類や生物の起源が分かっただとか、地震の予知がある程度できるようになっただとか、昔は『神の領域』と言われたものが次々と解明されていく、そういう世の中において、未だ『神の領域』として残っているのは、『宇宙の起源』『宇宙の果て』この2つだけになったといっても過言ではないかもしれませんね。

…でも、本当に宇宙の果てにはいったい何があるのだろうか。自分なりにいろいろと考えを巡らせてみた。
そもそも、我々人類はどうやって宇宙を観察しているのだろうか。答えは光である。
しかし、光がいくら速いといえど、一秒間に小さな地球をわずか7周半できる程度である。
太陽から地球に光が届くだけでも、8分ほどタイムラグがあるわけだから、遠い遠い星々からの光…たとえば1万光年離れた星からは、1万年前の光が届いている。
で、宇宙はどんどん膨張しているという。もちろん、光の速さどころではない。
であるからして、『人類からみた宇宙の果て』というのは、『光速で地球から遠ざかっている場所』ということになり、それよりも遠くなると地球にその光が届くことはない。
しかし、地球から見えない=何もない、というわけでもない。何かがあるはずだ。
現代の真理においては解明しようがない、そういう『神の領域』である。
宇宙の果てには壁か何かのようなものがあるのか、はたまた果てなど存在しないのか、それは誰にも分からない。
知りたい。でも、知ることはできない。

しかし、ここで歴史に目を向けてみることにしよう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。『最後の晩餐』や『モナリザ』で有名であるが、彼の未来の想像、それは非常に正確で、まるで現在の世の中をそのまま書き写しているかのようである。
彼は数百年も前にこのようなことを想像した。そしてその想像は正しかった。
ということは、今はそのかけらさえも捉えることのできないような事柄でも、数百年、数千年後には解明されているかもしれないし、現代にもダ・ヴィンチのようにその『数百年後の世界』となる未来の想像をしている人間がいても不思議ではない。
もっとも、それが仮にいたとしても、それが正しかったかどうか、それが分かる頃にはこの文章を読んでいる人間は誰一人生き残っていないのであろうが。