生きる、ということ。

学校と秋空

一昨日、うちの学校の高1の後輩が、亡くなった。白血病だった。




骨髄移植も受け、一時は回復して学校にも元気に来ていたのに、まさかの再発。
そして、ついにみんなの願いが叶えられることはなかった。




授業前に、全校生徒で黙祷をした。
長年うちの学校で勤めてきた先生でも、こんなことは初めてだという。


気の毒だとか、可哀想だとか、そんな陳腐な言葉では決して片付けることのできない出来事ではあるが、この場を借りて自分からもあらためて追悼の意を表したいと思う。






体育祭の日には、同級生の友達のお父さんのお葬式があった。
今日は、英語のキムタツ師の親御さんに不幸があったらしい。




自分の身近にいる存在。普段当たり前のように周囲にいる存在。
そんな人が亡くなってしまうことは誰にとっても悲しい出来事なのに、ましてや自分より年下の子が志半ばで亡くなっていくことほど心いたたまれないことは無い。












命って、何だろう。


生きるって、何だろう。








普段のんべんだらりと平穏な日常生活を送っている間、こんな永遠のテーマと真剣に向き合うことなど滅多に無い。
人の死という、最も身近で且つ最も疎遠な現実に直面したその時、生きるということが初めて浮き彫りになるのである。








光があるからこそ、そこには影ができる。
闇があるからこそ、そこには光がある。


それと同じように、死という存在があるからこそ、人は生きていられるのかもしれない。








だからこそ、生きたい。いや、生きなければならない。


まだ自分には、生きている間にやるべきことがたくさん残されている。
そして誰にでも訪れる永い眠りを迎えるその瞬間には、すべてをやり遂げていたい。せっかくそのための時間を与えられたのだから。








そうだ、今を生きるんだ。




こうして当たり前のように過ごしている平凡な日常が、
二度と戻れない特別な過去に変わってしまうその日まで。